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【フレッドハービースタイル】とは一体何か

更新日:10月26日


世界的に人気を博しているジュエリーがあります。

それが、ネイティヴアメリカンたちが生み出した芸術品の数々。

ネイティヴアメリカンジュエリー、インディアンジュエリーと呼ばれるシルバーアクセサリーは、この日本でも多くの著名人たちが身につけ、また虜になっています。

今回はそのネイティヴアメリカンジュエリーの中でも特に人気が高い、フレッドハービースタイルについてお話をしたいと思います。

フレッドハービースタイルとは一体なんなのか。そしてその背景にはどのような歴史があるのか。

今回は1800年代のアメリカ、野望と危険に満ち溢れた西部開拓時代へと時計を巻き戻していきます。

 

フレッドハービーとは

【フレッドハービースタイル】についてお話しする前に、欠かせない人物をご紹介します。

それがフレッドハービースタイルの名前の由来ともなった大富豪、フレッドハービーです。

伝説の起業家、フレッド・ハーヴェイ

See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons

フレッドハービー(Frederick Henry Harvey)は、西部開拓時代を生きた人物であり、(1835年6月27日- 1901年2月9日)

アメリカで最初のレストランチェーンを設立したとされる豪腕経営者でした。

スコットランド人とイギリス人の両親の元に生まれ、1853年にイギリスはリヴァプールからアメリカへ移住してきました。

はじめに、彼はニューヨークにあった人気レストランに就職し、レストランを経営する上で様々なことを学びます。

それは具体的に、新鮮な食材を使って最高の料理を提供すること、何よりもサービスの質を重視し顧客を最大限に満足させることなどです。

そこで彼は、給仕人の助手や皿洗い、ウエイターやラインクック(ヘッドクックと呼ばれる料理長のもとで働く助手のようなもの)などを勤め、様々な経験を積んでいきます。

ここで学んだことが、のちの彼のビジネスに大いに役立つことになっていきます。

その後彼はニューヨークからニューオーリンズ、セントルイスに移り住み、職を転々としています。

実はその頃に宝石商として働いてもいたのですが、これもまたその後の彼のビジネスに多大な影響を与えたとされています。

 

転機

彼が経営者としての才覚を現し始めたのが、1870年代からのことでした。

ミズーリ州はセントジョセフに拠を構えていた鉄道会社の貨物代理店で働いていたハーヴェイは、1875年にあるビジネスパートナー(Jasper "Jeff" S. Rice)と共に、

デンバーとカンザスシティ間のカンザスパシフィック鉄道(ライバル会社でした)沿いの、小さな町に2つのレストランをオープンし人気を集めます。これが彼の初めてのレストランとなりました。

しかし全てが順調には進まないもので、このビジネスパートナーとは袂を分かつことになります。

彼の経営していたレストランは非常に好評を得ていたため、別の場所でオープンすることを計画し始めます。

いくつもの交渉を経た結果、Atchison、Topeka、Santa Fe Railroadのゼネラルマネージャーを務めていたチャールズF.モールス(Charles Fessenden Morse,1839-1926)に気に入られ、1876年位にはついにハーヴェイレストランをオープンすることになったのです。


フレッドハービーのレストラン

Gottscho-Schleisner Collection, Public domain, via Wikimedia Commons


これがのちに映画化までされる伝説のレストラン、「Harvey House」の始まりでした。

 

粗悪な”食堂”

19世紀になると、アメリカでは蒸気機関車による交通網が急速に発展していました。

具体的には、1850年代にはすでにミシシッピ川以東に路線網ができあがっていたほどでした。

1850年代の鉄道の地図

Norman B. Leventhal Map Center at the BPL, Public domain, via Wikimedia Commons

これにより、仕事や旅行などで鉄道を利用する人たちが急激に増加し、鉄道沿線はある種の経済地区へと発展していきます。

しかし、この頃はまだまだ発展途中であったため、いわゆる食堂で出される料理はお世辞にも美味しいとは言えませんでした。

特にシカゴ西部の食べ物は、最悪であったとの記録もあります。

ここに目をつけたハーヴェイは、この粗悪な”食堂”とは徹底的に差別化を図り、一気にその勢力を拡大していくことになります。

ハービーハウス

Gottscho-Schleisner Collection, Public domain, via Wikimedia Commons


 

ハーヴェイ・ハウスの最高のサービス

ハーヴェイはこのレストランに、自分の経験の全てを注ぎ込みます。具体的にハーヴェイ・ハウスのサービスはこのようなものでした。

実際のニューメキシコのハーヴェイハウス

Ward, Robert, creator, Public domain, via Wikimedia Commons

・列車の中に冷蔵の保存庫を設置し、アメリカ各地の新鮮な食材を提供した。

当時の鉄道の冷蔵車両

Lordkinbote, Public domain, via Wikimedia Commons

・徹底的にマナーを訓練された18−30歳までの女性に、最高品質のサービスを提供させた。

・電車に到着時刻を知らせる電信システムを搭載させ、停車と同時に注文されていた料理を提供できるよう務めた。

・料理人には一流を採用し、レストラン内部では高級な銀器や統一された制服を採用し差別化を図った。

今ままでの食堂にはなかったこれらの高品質なサービスを提供することで、ハーヴェイ・ハウスは会社員から観光客まで幅広い顧客を魅了することに成功し、

1880年代後半には、サンタフェ鉄道沿いの100マイルごとにハーヴェイ・ハウスを建てる程の急激な成長を遂げました。(1885年には17のレストランを経営していたそうです)

ハーヴェイ・ハウスのレストラン

Fred Harvey , Public domain, via Wikimedia Commons

また、蒸気機関車は今の電車とは違い、停留所ごとに大量の炭や水を補給したり、機関の点検や整備をする必要があったため、通常で3−4時間ほどの休憩が必要でした。

この時間を埋めるための最高の選択肢ともなったのが、このハーヴェイ・ハウスであったわけです。

さらにこの後、1888年にはサンタフェ鉄道内にも食堂車をオープンさせ、多くの乗客から絶賛されました。

 

ハーヴェイ・ガールズ

ハーヴェイ・ハウスを語る上で、忘れてはならない存在があります。それがハーヴェイ・ハウスでウエイターを務めていた女性たち、通称ハーヴェイ・ガールズです。

美しきハーヴェイガールズ

Grand Canyon National Park, CC BY 2.0, via Wikimedia Commons

ある資料によれば、この女性たちこそがアメリカで最初の女性労働者であるという記載も見られるほど、革新的な存在であったことがわかります。

常に先進的な考えを持つフレッド・ハーヴェイは、女性を労働力として雇うことに微塵の躊躇も見せませんでした。それが結果的に、このハーヴェイ・ガールズなる唯一無二のアイコンを作り出すことにつながったのでした。

ハーヴェイ・ガールズたちは顧客にサービスを提供する前に、徹底的に訓練されていました。ハーヴェイ・ガールズ・マニュアルなるテキストまで用意し、最高品質のサービスが提供できるよう彼女たちは細部に至るまで訓練を受けました。

ハーヴェイ・ガールズ・マニュアル

Atchison, Topeka, and Santa Fe Railway Company, publisher, Public domain, via Wikimedia Commons

そのサービスの品質は、ハーヴェイ・ハウスを模倣しようと考えていたライバルたちの追随を許さないほど、徹底して高い水準に保たれていました。

最終的に、19世紀末から20世紀初めにかけてこのハーヴェイ・ガールズとして働くことは、当時の女性たちにとっての一つのロールモデルにすらなっていました。

さらに言えば、当時家から出ることはほぼ許されなかった閉鎖的な女性の社会進出の状況において、アメリカ中に広がる鉄道沿いの街へ働きに出られるという革命的なものであり、

最終的には数千人にも及ぶ女性たちが、憧れのハーヴェイ・ガールズになるため自らの街を出て働きに行くほどの人気の職業となったのでした。

ジュディ・ガーランドのハーヴェイガールズ

Fred Harvey, Public domain, via Wikimedia Commons

その人気は凄まじく、言わずと知れた名女優ジュディ・ガーランドを主演とした名作映画「ハーヴェイ・ガールズ」(1946年,MGM制作)が作られるほどでした。

 

フレッドハービースタイルとは何か

ここまでフレッド・ハーヴェイの興した伝説的なレストラン、ハーヴェイ・ハウスについてご説明してきましたが、それでは一体このレストランがどのようにしてネイティブアメリカンジュエリーとの関係を持つことになったのでしょうか。

フレッド・ハービー・スタイル

See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons


(以下横道)こちらは1900年初頭のインディアンの横顔が描かれたポストカードです。フレッドハービーの資料を調査していたところ、当時はこのようなポストカードが販売されていたようでした。


ポストカードの裏面

ちなみにこちらは別のカードの裏面ですが、左上に「Fred Harvey」のロゴが記されていることがわかります。


旅行に出た先から、友人・知人・家族などにこのようなカードを送ることは、当然スマホなどがなかった当時においては、非常に画期的な贈り物だったのだろうと思います。(横道終わり)

ネイティブアメリカンと、フレッドハービーをつなぐキーポイントは、やはりハーヴェイ・ハウスでした。

蒸気機関車が移動の足として急速に認知されていく中で、鉄道を使って旅行をする観光客が一気に増えました。

今まで自分たちが見たことのないものを見たい、冒険の旅に出たいという人たちの群れで、鉄道は常に満杯でした。

鉄道での大陸横断旅行も人気

Fred Harvey, Public domain, via Wikimedia Commons

彼らは出かけていく先々で、自分が旅行した記念として何か形に残るものを購入したいと考えていましたが、未だ決定的なものには出会えてはいませんでした。

そこに目をつけたのが、当時Fred Harvey Companyでバイヤー兼マーチャンダイザーとして働いていたハーマン・シュヴァイツァー(Herman Schweizer,1871-1943)でした。

すでに当時ネイティヴ・アメリカンや行商によって、観光客向けのラグやアクセサリーなどは販売されていたのですが、そのころのネイティヴ・アメリカンの作るシルバーアクセサリーは「重く、ごつく、値段が高い」物がほとんどでした。

これをハーマンが観光客向けに「軽く、薄く、値段が安い」ものへと作り変えるよう指示して販売したところ、ツーリストジュエリー(観光客向けの宝飾品)として大人気となり、多くの観光客の手にこれが渡りました。

コインシルバーのフレッドハービースタイルのバングル

https://www.ebay.com/itm/SCARCE-EARLY-Fred-Harvey-Era-NAVAJO-Silver-APPLIED-THUNDERBIRD-Design-Bracelet/302486197430?hash=item466d9514b6:g:LoMAAOSwFXVZ4BNS

これがいつしか、Fred Harvey Companyのスタイルという意味を込めた【フレッドハービースタイル(Fred Harvey Style)】と呼ばれるようになったのです。

(本来はフレッド・ハーヴェイ・スタイルですが、日本の発音的にはハービーの方が馴染みがあるかと思います。)

このフレッド・ハービー・スタイルのシルバージュエリーは、1900年代から1930年をピークに、ホテルやレストラン、鉄道の線路のそばなどで売られていました。

ネイティブアメリカンのアクセサリー販売の様子

See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons

こちらはポストカード「ネイティブアメリカンの建物への入り口」と題されたものです。ニューメキシコでさまざまなものが販売されている様子が見られます。


ちなみにこのころのシルバージュエリーは、銀貨や銀の食器を溶かして作られており、純度的には現在では一般的なスターリングシルバー(純度92.5%の銀)ではなく、コインシルバー(純度90.0%の銀)と呼ばれており、

純度が低い分硬さもあり、その重厚感や独特の鈍い輝きは、多くのコレクターの垂涎の的となっています。

有名なコレクターとしては、世界的に著名なデザイナーであるラルフローレン氏などが挙げられます。

 

もう一つの知られざるネイティブ・アメリカン・ジュエリー

ここまでフレッド・ハービー・スタイルの歴史と背景をご紹介してきましたが、もう一つの知られざるネイティブ・アメリカン・ジュエリーがあります。

それがこのバッテリーバードです。(こちらは当Country Gentlemanが制作した、ヴィンテージ素材のみを使用して製作された、新しいバッテリーバードです。)

バッテリーバード
古いレコードやターコイズが原料

詳しくは別の記事「バッテリーバードの知られざる歴史とは」にて詳しくご説明しますが、日本でもまだほとんどの人が知らないであろう、文字通り失われつつあるヴィンテージ・アクセサリーです。

Country Gentlemanではこのようなヴィンテージアクセサリーの歴史に敬意を払いながら、記憶から忘れ去られることのないよう、

これからも丁寧に歴史を紐解いていきたいと考えております。

皆様に驚くべきヴィンテージアクセサリーの歴史をお伝えし続けていけるよう、今日も様々な文献に目を通しています。

Country Gentleman

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